さよなら独身貴族 西部劇編

西部劇、戦争映画、時代劇について書いていくブログ。たまに書評。

プロインディアン映画の萌芽としての『襲われた幌馬車』

こないだ書いたジョン・ヒューストンバート・ランカスターオードリー・ヘップバーンの『許されざる者』(1959)は、拾われたカイオワ 族の娘の奪い合いという設定ながら、まだインディアン(先住民)はたんなるやっつけるべき人々という扱いであった。

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今日は1956年製作『襲われた幌馬車』の話をしよう。冒頭いきなりリチャード・ウィドマークは岩山の中で、殺人の罪で保安官とその二人の兄弟に追われる。二人は射殺したが弾薬尽きて保安官に逮捕されてしまう。そこへ幌馬車隊が通りかかり、その先はアパッチの土地で危険ということで同行することになる。幌馬車隊の人々はウィドマークに酷い扱いをする保安官を責めるが、保安官は彼がコマンチに育てられた白人でコマンチの女性と結婚していたことを明かす。ちゃんと白人という設定にしてるのは『許されざる者』よりだいぶいいと思う。

そんな中、揉め事の中でウィドマークは保安官を殺してしまう。わかりやすい悪人面のウィドマークだが、悪者にみせかけて根は善人というのは西部劇のお約束だが、じつは本当にただの悪い人なのではという嫌な予感になってしまう。

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この後、幌馬車隊がアパッチに襲撃されて大人たちはウィドマークを除いて全滅、少年少女らだけ生き残る、さあ困ったという展開になる。絶体絶命どうやってサバイブするのというところで、ウィドマークのコマンチ仕込みのボーイスカウトが始まる。少年少女らもウィドマークおじさんもしかしたらいい人かもという雰囲気になっていくのだ。このようにインディアンの自然に即した生活習慣は、1970年前後からエコでロハスな時代思潮とともに西部劇では好意的に描かれるようになるのだが、1956年くらいだとかなり稀である。

さらに副筋として異母姉妹の確執というか、母が白人の姉が、母が先住民の妹に嫌がらするというわかりやすいエピソードも盛り込まれている。ここでちゃんと姉のほうが悪い人ということになってるのも大事なポイント。

こういった先住民がらみのところがこの映画を際立たせているのだけど、普通にウィドマークのアクションとかかっこいいです。そしてウィドマークと少年少女らはどのようにしてアパッチの死の谷を抜けるのか、そして生き延びたとしてウィドマークの処遇はどうなるの?というところで手に汗握る展開もあり。そして無駄にロマンスなんかもあり非常に楽しめる作りとなっている。

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先住民の文化への尊敬が見られる点でこの時代としては異色といえるし、後の時代のプロインディアン西部劇の萌芽がみられるとの評価はよく聞かれる。しかし襲ってくるアパッチ族については、まだやっつけるべき連中というところまでしか描かれてないのでまだまだ道は遠いのであった。