さよなら独身貴族 西部劇編

西部劇、戦争映画、時代劇について書いていくブログ。たまに書評。

『帳簿の世界史』感想

会計や帳簿という観点から世界史(正確には西洋史だが)を見直すという非常に興味深い書物。多数の絵画を引用しており、楽しく読める。以下は読書ノート。

古代より会計がおこなわれていたが、ローマ皇帝アウグストゥスが帳簿を公開して自らの偉業を誇示した。しかし当時の帳簿は現代の複式簿記とはほど遠く、不正の余地も大きく、損益や投資の予測に使えるしろものではなかった。そしてローマ帝国の衰退とともに公開されなくなる。
ローマ帝国が崩壊して、カール大帝、オットー大帝らが統治の強化をめざしたとき会計は再び重要な地位をしめるようになる。ウィリアムズ征服王がノーマンコンクエストを成し遂げたとき、一度の急襲で制服に成功したため、世代をまたいだ複雑な権利関係をリセットすることができ、世界初の土地登記簿を作成した。13世紀にむかって経済が再び発展するにつれ若干まともな会計管理がなされるようになる。しかしローマ数字が使われていたためエラーはつきものであった。

北イタリアの都市国家ではアラブ世界との交易を通じてアラビア数字を扱うものがでてくる。これにより複雑な計算が可能になる。また商人らは共同出資で貿易をおこなったため、仲間と損益通算する都合上、複式簿記を発明した。これらは当時としては画期的なシステムであったものの、ヨーロッパの大国の君主たちは取り入れようとしなかった。中世ヨーロッパのキリスト教社会では金勘定は汚らわしいものと考えられていたからだ。

トスカーナの商人ダティーニやフィレンツェメディチ家の話は、ピコ・デラ・ミランドラなどの新プラトン主義とも関係しており実に興味深いが割愛。要するにコジモ・デ・メディチは詳細な会計管理を行ったが、会計とキリスト教や新プラトン主義はまだまだ相性が悪く、会計文化は根付かなかった。

15世紀に入るころにはイタリアは衰退しスペインが台頭する。太陽の沈まぬ帝国といわれるが帳簿の管理はずさんで植民地経営、債務について把握できずに衰退する。会計や徴税を管理する官僚機構が弱かったものと思われる。ここでも「書類王」フェリペ2世のエピソードは面白いが割愛。アルマダの海戦、オランダの独立などにより没落。

17世紀オランダは商業国家として発展するさいに会計の重要性が認識された。プロテスタント国家であったため金勘定は汚らわしいという観念もなかった。治水の伝統も会計管理に寄与したといわれる。現在の損益計算書貸借対照表の原型はこのころに考案される。しかしそれでもまだ複式簿記が広く定着したとはいいがたかった。また公正な会計は君主制とも相性が悪いことが明らかになる。

ルイ14世はオランダの富と自信、それを支える会計に魅せられていた。事実上の宰相コルベールが国王のために膨大な帳簿を管理し、最終的なチェックはルイ14世が行った。しかしコルベールが急死したのちは会計管理はずさんになり、また有能な臣下もあらわれなかった。

17世紀イギリスでも会計の整備には苦労したが、清教徒革命、権利章典などを通じてシステムが確立されていく。スペイン継承戦争で多額の債務を負うが、南海会社の設立でうまく弁済した。南海泡沫事件の処理においても、フランスのミシシッピ会社とは異なり、イギリスの信用市場の再建に成功する。ウォルポールの交渉力、宗教的に寛容な土壌も寄与しているといわれる。このような会計文化は18世紀以降の産業革命にもおおいに貢献する。

一方放漫な財政を続けていたフランスはジョン・ロー、ジャック・ネッケルらの努力にもかかわらず事態は改善せず、フランス革命を招くことになる。以後、公正な会計への道筋がつけられた。またネッケルの公開した会計報告は他国にも影響を与えた。

アメリカ建国の父らは当初から本国で商業簿記を身に着けており、奴隷をも資産に計上するほどであった。これは独立戦争におけるやりくりにもおおいに役立ったとされる。19世紀になるとアメリカは鉄道建設による多額の融資を必要とするためより会計技術が発展することになる。この時期にイギリスで現代にも残るデロイト、プライスウォーターハウス、アーンスト・アンド・ヤング、トウシュなどの会計事務所が生まれ、多くの会計士が大西洋をわたった。アメリカでもジョン・ムーディが財務分析を始める。

こうして会計技術が発展するがそれでも不十分で、粉飾決算が横行し大恐慌が起きてしまう。議会はグラス=スティーガル法を制定し、SECを設置する。20世紀後半には会計事務所はコンサルティング業務を拡大、監査法人としての独立性に疑問符がつくようになる。1999年にはグラス=スティーガル法の銀行業務と証券業務の分離を定めた規定が廃止される。その後、エンロンをはじめとする多数の不祥事を発生する。こうした矛盾はリーマンショックで最高潮に達する。

筆者は現在の会計は規模や複雑さが増していること、監査法人には誘惑が多すぎることなどから、金融破綻はそもそもシステムに組み込まれるているとのべる。そしてこう結ぶ。

かつて社会は、財政に携わる人に対し、会計を社会や文化の一部とみなすように求め、帳簿に並ぶ無味乾燥な数字からでさえ、宗教的・文学的意味を読み取っていた。いつか必ず来る清算の日を恐れずに迎えるためには、こうした文化的な高い意識と意思こそを取り戻すべきである。